赤松子ども神輿を復活

赤松自治会の子供神輿について

◆少し前の話(小和田から赤松町へ)

 昭和42年7月1日に、私たちが住んでいる町名が、「茅ヶ崎市小和田」から「茅ヶ崎市赤松町」に変更されました。現在は、それから53年経過していますが、今でも古い住所「茅ヶ崎市小和田3789」を記憶しています。当時の住所は地番と呼ばれる明治の初期に、土地の税金を徴収するために付けられた番号で、昭和37年に住居表示に関する法律が施行され、新しい(判りやすい)住居表示に変わってきています。今でも、赤羽根地区を含め茅ヶ崎市北部と相模川沿いの地区は古い地番のままになっているようです。下図が現在の茅ヶ崎市の住居表示です。

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茅ヶ崎市住居表示

 この「小和田」という地名は「茅ヶ崎の地名:樋田豊宏編」という資料によると、1535年頃の「快元僧都記」という記録に出てきたり、江戸時代には貝原益軒の「吾妻路ノ記」等に出てくるそうです。

 江戸時代には東海道の両脇から海岸近くまでが、小和田村であり北側にある菱沼村との境界が入り組んでいたという記述が「ちがさき村ごと歴史散歩」にあります。現在の「小和田」という町名辺りが「小和田村」の最北部で、東海道の北側の菱沼村と境界が入り組んだ辺りと思われます。

 また、この資料には、1663年(寛文3年)に茅ヶ崎村と小和田村が漁場の事で争い、幕府から境界を裁定され、その境が現在のラチエン通りになっていると記されています。

 下記の資料は茅ヶ崎市HPの「茅ヶ崎村の由来」より引用しました。この地図では東海道を境界として菱沼村と小和田村を分けていますが、実際の境界はもう少し北側だったのでしょう。

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江戸時代23ヵ村と明治4ヵ村

 また、「赤松町」の由来については前述の資料「茅ヶ崎の地名」によると「赤松の大木がたくさんあった」とありました。私の記憶でも、昔は我が家の近くに、数本の大きな松の木があ有りましたので、それらが赤松の大木であったと思われます。

◆ 赤松ふるさと夏祭り

 それからしばらく後の、今から約50年近く前、赤松町は、当時から赤松町内会と赤松町町内会、本宿町内会に分かれており、町内会としてはそれぞれ独立していました。(現在は自治会と改称)

 その頃は住民も若く、子供達も多かったため当時、赤松と名の付く二つの町内会共同で「赤松ふるさと夏祭り」を開催しました。当時は、リヤカーを用いて作った山車や故天野さんが発起人の手作り神輿を皆で引いたり、担いだりしていました。

 ところが、2001年にジャスコ(現イオン)が開店する際の「子ども神輿」が当たるイベントに、当時の赤松町自治会長であった故柳会長が応募され幸運にも当選しました。当選したのは「神輿の部品」でしたので、故稲垣さんを中心に「夏祭り実行委員会」有志の方々が1ヶ月かけて組み立てて、写真の様な立派な神輿が出来上がりました。

 その後、子供達の数がどんどん減少し、約10年近く前に夏祭りも中止となりました。以降、子ども神輿は日の目を見る事も無く、防災倉庫の横にある小さな倉庫に大太鼓と一緒に眠っていました。

◆ 子ども神輿の復活を願って

 最近、赤松自治会に加入したシエリア辻堂西口マンションに多くの子供さんが移ってこられ、赤松自治会の子ども人口が増えたのを機会に、倉庫に眠る子ども神輿を引っ張り出し、綺麗に磨き上げました。是非、新しく赤松に住む事になった子ども達と旧赤松自治会の子どもらが一緒になって、この神輿を担いでもらいたい思いでいます。

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倉庫内の神輿と太鼓

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太鼓を綺麗に磨く

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子ども神輿

 現在、許可を得てシエリア辻堂西口マンションのエントランス部分に、磨き上げた「子ども神輿」を展示しています。皆さんに子ども神輿の由来を知って戴くためです。

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赤松子ども神輿と大太鼓


 シエリア辻堂西口マンションの子らと旧赤松自治会の子らが一緒になって、みこしを担げる日が近い事を願ってやみません。