赤松自治会だよりで「茅ヶ崎歴史散歩」の連載を始めて12番目になりました。このコーナーの取り上げるテーマに関しては、以下の2冊にかなりお世話になっています。
(1)茅ヶ崎歴史快道 楊井一滋著(ギャラリー木の実蔵書)
(2)あのみち このみち 歴史みち 文化資料館ブックレット1(購入品)
どちらも茅ヶ崎の道をテーマにまとめられており、以前に取り上げた「大山みち」(大山街道)もこの資料が大いに役立ちました。
今回は文化資料館ブックレットに掲載されていた地図を元に、鉄砲道をロードバイクで散策して、写真を撮影してみました。下記が実際に走った経路で、旧道も辿ってみましたが、とても判りにくい道でした。
以下が赤松自治会だより21号に掲載した本文(+α)です。
享保13年(1728)、江戸幕府は大筒(大砲)の演習場として、片瀬村(藤沢市)から柳島村までの海岸一帯に鉄砲場を設置しました。
茅ヶ崎市は平成12年度の「みちの愛称」事業で、柳島から松下政経塾までの道路に「鉄砲道」と愛称を付けましたが、本来は南湖の「六道の辻」から富士見町の平和学園までの道を「鉄砲道」と呼んでいたようで、一部の旧道は現在の道とは異なっています。その道筋は鉄砲場に沿っていたものと言われています。
この道になぜ「鉄砲道」の名前が付いた理由については諸説あり、「柳島湊から大筒を運び、演習する武士達が往来したから」とか「鉄砲場のそばを通っているから」等有りますが、定説は無いようです。
東海岸5丁目の鉄砲道の旧道と、新しい鉄砲道の分岐点に、佐々木卯之助の記念碑が建てられています。佐々木氏は天保年間、幕府の旗本で鉄砲場の管理責任者でした。南湖の住民は耕作地が少なく、鉄砲場内の荒れ地での耕作を望んでいたため、佐々木氏が農地とすることを黙認し、住民は感謝していました。
ところが、このことが幕府に発覚し、天保6年(1835)に青ヶ島へ島流しの処罰を受けました。佐々木氏は明治維新後も島にとどまり、82歳の生涯を終えたそうです。
南湖地区の住民達は、佐々木氏からの恩を受けたことを感謝し、明治31年(1898)南湖中町の八雲神社に記念碑を建てました。その後何度か移転し、昭和56年(1981)現在の場所に移りました。
以下に、自転車で走り写真を撮影したものを紹介します。数字は地図上の位置に対応します。
① みちの愛称 鉄砲道入口(戸塚茅ヶ崎線をポルシェ販売店前で右折)
② 平和学園 旧鉄砲道入口(学園通りから右折)
③ 鉄砲道旧道と新道の交差点(まっすぐが旧道、左右が新道)
④ 鉄砲道新道と旧道の合流点(佐々木卯之助の追悼記念碑が設置 右側が旧道)
⑤ 佐々木卯之助追悼記念碑
⑥ 鉄砲道から六道の辻へ向かう旧道入口(Google Mapより引用)
⑦ 六道の辻 6本の道の合流地点
⑧ 鉄砲道標識
⑨ 鉄砲道柳島終点(新道)