茅ヶ崎歴史散歩 ④ 小和田村

 今回は、前回紹介した「ラチエン通り」が元々は茅ヶ崎村と小和田村の郷境であったことから、私たちが住んでいる赤松町の旧名:小和田村の紹介です。

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茅ヶ崎市旧地図(村)

 小和田村は西の境が茅ヶ崎村で、北の境は菱沼村、東の境は辻堂村で、南側は相模湾に接していました。江戸時代から明治時代にかけての地図が茅ヶ崎市のH.P.に掲載されていたので、それを元に作成しました。地図上では小和田村と菱沼村の境は東海道としていますが、厳密には東海道に面した北側の部分まで小和田村で、菱沼村との境界は複雑に入り組んでおり、境界を示したものが見つかりませんでした。

 小和田村は海岸に面していたため、明治後半には10件の網元がいたそうです。東海道の両脇の北側に新船、はだか網、志井網、新網。南側に元船、仁井網、西網、徳網で、浜竹に中網、小網がありました。明治から大正時代頃までは漁業と農業で生活しており、浜が忙しいときは漁をやり、漁が無ければ畑を耕すと言った具合だったそうです。現在も仁井網と西網は網元として残っているようです。下記はGoogl Mapから引用した、浜須賀交差点にある仁井網の看板。

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仁井網の看板

 今回調べた茅ヶ崎図書館蔵書「としよりの話」では、明治35年の冬にマグロのナグラ(かたまり)を追って、シャチの大群が小和田の海岸に押し寄せたそうです。そして、地引き網でマグロを100匹くらい捕り、大きなものは50貫(188kg)あったと言いますから、大漁だったのでしょう。「マグロを食べ飽きた」とありました。

 そのときに見た一番大きなシャチの背びれが、陸から見ると姥島と同じぐらいの高さだと言いますから、陸と姥島の間にいたシャチだとしても結構大きかったのでしょう。(下の写真が想像図:合成写真です)

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姥島に泳ぐシャチ(合成写真)

 「としよりの話」は昭和49年から53年にかけ、茅ヶ崎に生まれ育った各地区のお年寄りたちから、明治・大正の話を聞き取ったものです。

【あしかび郷土史研究グループ】